牟呂中学校の創設
六・三制発足
昭和22年(1947)は「戦前の日本」が新憲法施行を軸に「戦後の日本」へと大きく転換した年であった。教育においても、同年3月31日「教育基本法」「学校教育法」が公布されて、戦前の教育は根本から改革されることとなった。新学期から「国民学校」は「小学校」となり、「高等科」が廃止され「新制中学 校」が発足した。いわゆる六・三制教育のスタートである。
市内 十中学発足
愛知県においても、昭和22年4月12日、中学校長の任命式を県議事堂で行った。つづいて18日、県下286校の公立中学校は一斉に開校式を挙行した。本市は下記の10校が、中部第一中学校を除いて小学校もしくは旧軍用施設などを仮住いとして開校した。
西部二中の発足
牟呂中学校は牟呂小学校の一部を借用して、豊橋市立西部第二中学校として発足した。初代校長は、豊橋市立商業高校から赴任した豊田搶氏で、職員は10名であったが、年度内に4名が赴任したので計14名となった。当時の生徒数及び学級数は、下記の通りである。
開校式以来学校は休校となり、一学期が本格的に開始されたのは5月1日からであった。当時を回想して、豊田搶校長は次のように書いている。
「しかし、中学校が設立されたといっても何一つあるわけではない。そのとき決まっていたのは校長の私と、教諭の安藤先生の2人だけであった。幸いにまだ青年学校の女子部が存続していたので、その先生方の助力を得、小学校の一教室を借りて企画に当たったのである。まず早急に私のしなければならぬことは、職員の組織と教室備品・消耗品の調達であった。設備などは黒板・白墨・ザラ紙まですべて小学校から借用することとし、先生方もおいおい内定してきた。そこでとにもかくにも4月18日に小学校の講堂で開校式をあげたのである。集まった生徒300余名、おちつかぬながらも私の訓示を聞いて帰った。その後5月1日まで臨時休校とし、その間に授業の準備をすることとした。なんともちぐはぐな開校式であり、生徒もとまどいしたことであろうし、私もまた喜びよりもむしろ悲壮な感にうたれたのである。」(「同窓会報 十年の歩み』より)
その後、6月に牟呂校区学校教育後援会・2学期早々に生徒自治会・12月にPTAの母体となる西部第二中学校父母と女教師の会が結成されるなど、苦労は多かったが着々と中学校として歩みだしていった。
牟呂中の出発
小・中学校の分離独立が当局から指令されて、校舎建築が一段と必然化し、具体化してきた昭和23年4月、各字から選出された委員による建設委員会が発足した。 建設委員会によって先ず敷地の確定が行われようとしたが、当時は農地改革やら市の戦災復興都市計画など複雑な事情がからんでいて、敷地の確保はなかなか難航した。 また、牟呂八幡社周辺にという案は、羽田中学校に近すぎる。坂津の旧村役場跡に作り吉田方中学校と牟呂中学校を一緒にしてしまえばよいという案は、吉田方中学校が先に敷地を確保してしまうなど、敷地は決まらなかった。ついには、「敷地がなかなか確保できないため牟呂だけは廃校にしてしまえ。いやなら1週間以内に敷地決定せよ」とGHQの人にひどく叱られたこともあった。そしてついに、敷地は元水産試験場跡地に最終決定した。
いよいよ敷地が水産試験場跡に決定したので、昭和23年9月10日、2・3年生の生徒は牟呂小学校から移転した。移転しても建物はあるものの校庭はなく、体育の授業では、明治新田の堤防を走ったり、野球など広い場所のいるようなときには、小学校までわざわざ出かけて行なった。また、教室の授業では教材はほとんどなく、当時の先生方による自作の掛け図を用いて授業を行なうしかなかった。乾電池のように、一部、占領軍からの配給の物もあったが、そのような物は、紛失すると大騒ぎになるくらい先生方は気をつかって使用した。
教室は、水産試験場の室内養殖場を拡張し四教室分確保した。また、講堂も利用した。 学校運営が軌道にのるまでは、牟呂校区民の方々の協力も大きかった。 例えば、室内養殖場の拡張は、牟呂校区の大工さんの奉仕によるものであり、水産試験場の池の埋め立てでは、牟呂校区民のみなさんが牛車で高師地区から土を運んでくれたりもした。
さらに移転と同じころ校名変更の指示があり、PTAを中心に審議した結果、昭和23年10月1日をもって「豊橋市立牟呂中学校」 と改称した。上に、当時の通知表があるが、「豊橋市立西部第二中学校」が「豊橋市立牟呂中学校」に訂正されていることが分かる。ここに新校舎もなく、かつ、全学年そろっているわけではないが、広々とした神野新田を見渡す一角に、牟呂中学校はその礎を築いたのである。
新校舎建築も着々と進行し、同年12月25日には起工式、昭和24年5月20日竣工式が行われた。本校が昭和22年4月18日、牟呂小学校に開校して以来、 2年と1か月が経過した。ここに待望久しかった新校舎12教室が完成した。 竣工式後の余興は22・23の両日にわたって、花火を打ち上げ、仮設舞台を組んで餅投げ・男女青年団の芸能大会・中学生の学芸会・青年・子どもの相撲大会など、まる校区あげてのお祭のようであった。
台風13号による牟呂中学校庭浸水状況(昭和28年9月26日)
牟呂中学校のカラー化へ